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京都島原の置屋と揚屋

 京都の島原は、京都駅から北西の方向、五条通り、七条通り、大宮通り、千本通りに囲まれた場所で、日本で最初の幕府公許の花街(かがい)があった所です。江戸の吉原、大阪の新町とともに日本三大遊郭の1つですが、皇族や公家、高級武士を相手とすることから格式が高く、その上、遊宴だけでなく和歌や俳諧などの文芸活動が盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成されるほどに活気を呈していました。
 しかし、交通の便の悪さや格式の高さなどが災いして、人の流れが祇園などに移り、現在では大門と、「揚屋」である角屋(現在は文化美術館)と、「置屋」兼「お茶屋」である輪違屋(現在も営業)の建物が残っているだけになっています。
 上記した置屋とは、芸妓や太夫を抱え、揚屋やお茶屋の要望に応じて太夫を派遣するお店を言います。芸妓や太夫の生活の場であり、また教育の場でもあります。
 揚屋とは、大規模な宴会場、今でいう高級料亭に相当します。客人をもてなす間は主に2階にあり、2階の座敷に客人を「揚げる」ことから「揚屋」と呼ばれるようになったそうです。1階に大きな台所があり、宴席に出す料理はここで作られました。
 お茶屋は揚屋と同じような宴会の場ですが、台所はなく、料理は外の仕出屋などから取り寄せます。

 では、今では珍しくなった花街建築の残る、現在の京都島原をご紹介します。

島原大門

  • 現在残っている、島原の玄関口である大門(おおもん)は、慶応3年(1867年)に建てられた、一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門です。門の手前には通称「見返りの柳」があり、この景色は明治後期からほとんど変わっていないようです。門から石畳の道が西に向かって延び、昔は通りの左右に格子造りの揚屋、置屋が整然と並び、その数は置屋が50軒、揚屋が20軒ほどもあったそうです。

輪違屋
 大門を入ってメインロードを西へ最初の角を北に少し行ったところにある置屋兼お茶屋さんで、現在も太夫を抱え、営業を続けています。建物は代表的な花街建築の1つです。

  • 創業は元禄元年(1688年)、始めは置屋として、明治5年からはお茶屋としての営業も始めたそうです。
    現在見られる木造2階建ての建物は、安政4年(1857年)に建てられたもので、その後増築され、明治4年(1871年)頃に現在の姿になりました。

 中に入ると、輪違屋の家紋である「重なる二つの輪」がついたのれんやガラス戸があります。この家紋は屋根にあった軒行燈にもついていて、いい味を出しています。入った所の板の間には掛け軸などが飾ってありました。板の間の左手に2階に上がる大きな階段があります。この階段は表の階段で、他にも階段があり、お客さん通しが鉢合わせしないように工夫されているそうです。

 大きな階段のある板の間を横切ると、縁側に出て、左手に中庭(西庭)、右手に主座敷があります。廊下には柱がなく中庭だけを見渡すことができます。

 曇りガラスが入った障子を開けると、主座敷に入れます。この座敷には近藤勇直筆の書が屏風に仕立てられて飾られています。この他にも詩歌や俳句の短冊が貼られており、かつて俳諧が盛んに行われていたことが忍ばれます。また奥にはもう一つの中庭である東庭を愛でることができます。


  • ←近藤勇直筆の書

 先ほど見た階段で2階に上がると、太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」や本物のモミジの葉で型を取り彩色した「紅葉の間」、さらに桂小五郎(木戸孝允)の書や公卿の近衛氏の筆による扁額なども見ることができました。デザインも色も150年も前のものとは思えないほど斬新でモダンなものでした。2階は残念ながら撮影禁止です。
 輪違屋は置屋兼お茶屋として営業されているので、普段、中を見ることができません。しかし、特別拝観の時だけ、解説つきで見学することができます。

角屋(すみや)
 輪違屋を出てメインロードに戻りさらに西へ歩いていくと、左手に格子が続く大きな建物が見えます。これが揚屋である角屋です。
 間口31.5mの大きな木造2階建ての建造物で、日本に唯一現存する揚屋建築の遺構として重要文化財に指定されているそうです。今の建物は天明7年(1787年)ごろからのものです。
 宴会業務は昭和60年(1985年)に廃業し、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として建物を公開しています。

 大きな家紋が入っている暖簾を見ながら、奥に進むと、右手に客人を招く正面玄関、前には勝手口があります。建物の柱には新選組によって付けられた刀傷が残っています。

  • 玄関

    勝手口

  • 新選組が付けたという刀傷

台所
 勝手口から入ると50畳あると言われる大きな配膳場と調理場を備える台所が広がっています。1階には大きなお座敷もあり、大規模な宴席にも対応できるような台所を持っていたわけです。この台所は、暗い中多くの人が立ち働くので事故を極力抑えるためにバリアフリーにしてあり、また床下収納を備えるという、江戸時代に建てたとは思えないような設備を備えています。

  • 台所の中から見た勝手口

    帳場

  • 勝手口から中が見えないようにした衝立

    床下収納

松の間
 1階にはお座敷が2つありますが、こちらは広さ43畳の大座敷です。座敷に面する庭の松は臥龍松(がりょうしょう、龍が伏したような姿の巨大な松という意味)で、この部屋の名前の由来となっています。この庭は、江戸のころから名所として知られたほど有名で、浮世絵にも描かれているそうです。庭の奥には3つの茶室が並んでいます。
 部屋の中にある、床の間の掛け軸、金箔が施された襖絵など、部屋の調度品は目を見張る豪華さです。
 また、新選組初代局長の芹沢鴨は、暗殺された日この座敷で宴会を行っていた、ここでの宴会の後、帰宅して寝ていたところを暗殺されたと言われているそうです。

  • 障子に入っているガラスは、今はもう製造することができないそうで、大切に保存されています。ガラス越しに見ると少しゆがんで見える庭は情緒があっていいものです。
    障子の桟の模様もいろいろあって、とっても日本らしさが出ています。

網代の間
 1階にあるもう一つの座敷である網代の間は、広さが28畳で天井板が網代組で作られているため、この名前が付いたそうです。この座敷からも中庭が見えます。
 この座敷は松の間より暗く、今は電気で照らしていますが、昔は大量のろうそくを使って部屋を明るくしていたそうです。そのためろうそくの煤がついて、天井や壁はなんとか落とせたものの、ふすまに描いた絵画は落とすことができないそうです。
 ここも障子の桟の模様の組み合わせが素晴らしく、外からの光が柔らかく部屋に入っていました。43畳の大座敷は圧巻でしたが、こじんまりした網代の間は情緒たっぷりですね。


  • はっきりした絵だったのですが、煤のためにぼやけてしまったそうです。

 いかがでしたか。今回は日本建築の中でも花街建築(置屋建築と揚屋建築)を見てきました。豪華ではありますが、とっても情緒が感じられ、上品な感じがしました。特に障子の桟の模様に感服しました。また、ガラスも透明なものを使ったり、曇りガラスであったり、使われる場所がよく考えられていました。
 今までは建物の外観にばかり気をとられていましたが、これからは、室内にも目を向けていこうと思います。

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