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奈良の町(2)-東大寺周辺

 今回は東大寺大仏殿の北西にある転害門から正倉院に行き、それから東大寺境内の西側を散策しました。

1.転害門と鼓阪小学校
 転害門は、東大寺の門の一つで、境内の西北、正倉院の西側にあります。この門の屋根は本瓦葺、切妻造りで、形式は三間一戸八脚(中央に本柱4本、本柱の正面と背面に合わせて8本の控え柱があり、隣の柱との間が一間(約1.8m)、中央のみが出入口になっている)、大きさは南北15m、東西7.73m高さ11mもあります。東大寺は創建(710~794年)後、たびたび焼き討ちにあい主要伽藍はほとんど失われましたが、この門だけは、何度か改修は行われているものの、創建時のままの形を残していて、奈良時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構です。国宝に指定されています。
 この門は昔から奈良と京都を結ぶ街道として利用されている古い道に面していて、道沿いには今でも古い商家や民家が残っています。
 この門をくぐって左手に瓦葺の大きな建物が見えました。鼓阪(つざか)小学校です。明治時代寺子屋式の教室から始まり、奈良で初めて開校した小学校で、去年創立150周年を迎えた古い学校です。奈良市立の学校なので中には入れませんが、外から見ただけでも歴史のある立派な建物であることがわかります。

  • 転害門

    街道に面した民家

    鼓阪小学校

2.正倉院
 東に歩いて、突き当たりを南に折れて後道なりに歩いていきました。車は時々走っていくのですが誰も歩いていない道をどんどん歩いていくと、左のほうに正倉院と書かれた標識がありました。標識の通りに歩いていくと宮内庁の事務所があり、警備の人に案内されてやっと正倉院正倉に着きました。

正倉院正倉

 高床式の校倉造りの代表的な建物で、奈良時代(756年)に建てられました。中には中国、西域、ペルシャなどからの輸入品や天平文化を中心とした多数の美術工芸品が収められています。正倉とは、元は「正税を納める倉」という意味で、役所や寺が上納された米穀や調布、宝物などを保管するために建てた高床式の倉庫で、正倉のある一画を塀で囲った所を正倉院と言ったそうです。したがって、正倉院は、昔は、複数存在していましたが、今残っているのはこの東大寺正倉院内の正倉一棟だけとなりました。そのため、正倉院というと、東大寺の正倉院だけを指す固有名詞になったそうです。

  • 宮内庁正倉院事務所

    正倉院の入り口

    南倉

    正倉の北にある神社

  • この塀で囲まれた区画が正倉院

    中倉

    北倉

    正倉院の前の道

3.大仏池と大仏殿
 正倉院の前の道を南に向かって歩いて行きました。東大寺大仏殿の裏を見ながら進み、大仏池に行き当たったら右に折れて池の南側を歩いて行きました。ちょうど紅葉の季節で綺麗に色づいていました。大仏池のほとりには鹿もいて、天気も良く、風も穏やかで絶好の散歩日和でした。

4.喫茶スペース工場跡事務室
 大仏池の南側の道を西に向かって進んでいくと、木造の古い平屋の建物があります。これは、喜多芳治郎が設立した乳酸菌製品の研究および製造を行っていた工場(長寿会研究所)で、大正末ごろに建てられたものです。工場は昭和55年(1980年)に閉鎖されましたが、その後30年近く経って、カフェとしてオープンしました。名前は工場の事務室だった場所を喫茶スペースとしたことからきているそうです。ただ、営業日は金、土、日曜日と祝日だけなので、残念ながらこの日は中にはいれませんでした。

  •               喜多家住宅⇒

5.東大寺西側
 この後、東大寺戒壇堂北門からちょっとだけ東大寺の境内に入り、入江泰吉旧居、依水園などが面した道を南に進みました。このあたりは、住宅街で随分大きなお屋敷や、老舗の蕎麦屋さん、レストラン、ギャラリーなどがあり、絶好の散歩コースでした。

  • 東大寺戒壇堂

    ギャラリー

    依水園入口

  • 戒壇堂北門

    若草山が見える

    入江泰吉旧居

    夕日に映える若草山

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